シンギュラリティー

(AIなんか恐くない)「シリーズ・2045年シンギュラリティーへの旅」Vol.-31 「不老不死の未来」Vol.-2

AIなんか恐くない)「シリーズ・2045年シンギュラリティーへの旅」Vol.-31・・・「不老不死の未来」Vol.-2

 

 

こんにちは。スピリチュアルランド、MIYA-JUNです。

「そもそも不老不死って善い事なの?」。今回は、このテーマで掘り下げてみたいと思います。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

 

不老不死の是非
問題点、疑問点

 

「不老不死」と同時に、「死の問題」を考える時、私の頭をよぎって行く、沢山の問題点疑問点があります。

それらを並べてみました。・・・・・・

・従来の、死ぬ事を前提とした人生設計を、どの様に再定義するのか?。

・“死との向き合い方”をベースとした宗教の、意義についての再定義。

・死があるから、生が輝くとの考え方。

・武士道精神に見る、「いつでも死ねる心構え」を持った、崇高な生き方。

・死の宣告を受けて、人生の残りの期限を、高密度な完全燃焼で生きる人。

・死の淵から帰還して、覚醒の人生を送る人。

・自ら選んだ“死に様”によって、自分の人生と言う作品を完成させる人。

・チャネリング等に登場する、高度な進化を遂げた宇宙人の、自発的で理性的な死に方。

 

・・・・・・ざっと、こんな所が思い浮かびます。

 

 

自殺する自由

 

不老不死の対極に、“自殺する自由”と言った事があります。

以前に私は、評論家・西部暹さんの話を書いています。

西部暹さんは、「自分の最期は自分で決めたい」とし、自らが「自裁死と呼ぶ、独自なやり方を実践しました。

その高潔な“行き様”と“死に様”を、心から絶賛する文章です。

※※※(MIYA-JUNの自由研究ノート)(“死の自己決定権”を考える)「西部暹の方法(高暹な人生)」※※※(こちらから)

この文章の中で、こんな事も書いています。

「今回は、スピリチュアルな観点から、思う所も沢山ありましたが、省きました。話のテーマの統一感を優先させた形です。それらはまた別の機会にする事とします。」

まさに今回が、“その機会”と言う訳です。

その時に“省いた”、ちょっとだけ同意できない箇所を、あえて取り上げさせて頂きます。

私には元々、西部暹さんの考え方に、難癖を付ける気持ちは全く無いのですが。・・・

(西部暹)『ホントに幸いなのは、死ねる事なんだ。これ、後もうね、千年同じ事やれと言われても、もうお願いですから死なせて下さい。えー、もういいんです。絶対、神や仏には近づけない。近づけば近づく程、神と仏は遠退いて行く。』

 

・・・私は、個人的に、こう考えています。「長寿は絶対的に善い事だ」と。

 

 

スピリチュアルな見解

 

ここで、“スピリチュアルな観点から”のネタを1つ。

チャネリング等に登場する、高度な進化を遂げた、宇宙人や地底人の皆さんは、非常に長寿です。

1000歳を越える人も、ざらにいます。だから故に、進化できるのだ。私は、そう考えています。

例えば、ある人が、90歳にして生まれて初めて、「愛の価値」に気付いたとします。

ところが残念な事に、その人には、その「理解」を活かす機会が、もう残されていません。

また、生まれ変わり、ゼロから勉強のやり直しです。

これが仮に、あと1000年の寿命だとしたら、どうでしょう?。どれ程の深みに、到達するのか想像してみて下さい。

やはり、継続しなければダメだと思うのです。

(ちなみに、これは私の父親の事でもあります。この話も、また別の機会に。)

 

 

アセンションした存在達にとっての死

 

さて、高度な進化を遂げた皆さんの話に戻ります。

彼等だって、最終的には死を迎えます。

不老不死を選択する事も可能ですが、そうはしません。

しかるべきタイミングが来たと判断すれば、自発的に、そのプロセスへと移行します。

そこには、恐怖も苦しみもありません。それは、記念すべき、大いなる祝福の時なのだそうです。

彼等にとっての死とは、更なるアセンションの事だったのです。

(続く)

 

 


『本日は、MIYA-JUN航空、2045便にご搭乗いただき、誠にありがとうございます。

どうぞ、シンクロニシティーなシンギュラリティーの旅をお楽しみ下さい。

アセンション・プリーズ、アセンション・プリーズ。』

 

MIYA-JUNも、あと1000年は長生きして、バカの深みを極めたりして。

お後がヨロシー様でっ(笑)。

 

 

 

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