こんにちは。スピリチュアルランド、MIYA-JUNです。
前回の続きをお届けします。
・・・・・・私がニュース第一報に接し、ネットで調べ、事の全貌を少しずつ確認して行く中で、心に真っ先に浮かんで来た物があります。その時は、あまりに不謹慎な事に思えましたが、同じ感じ方の人は沢山いるもので、ちょっと安心しました。
ご遺族の方々には、本当に申し訳ありません。西田昌司さんや黒鉄ヒロシの発言にもありますが、
解放や希望や勇気、新しい可能性。
これなんですよ!!!。
私は元々、どんな事があっても自殺は絶対にいけないと考えていました。それは、スピリチュアル的な理由からです。
魂の進化にとって自殺は、とてつもない逆行で、取り戻すのに数千年を要するとかの話はよく聞きます。神が与えてくれたチャレンジから逃げ出す事であり、責任の放棄であり、何より、神に背く事と思えます。
(今回は、スピリチュアルな観点から、思う所も沢山ありましたが、省きました。話のテーマの統一感を優先させた形です。それらはまた別の機会にする事とします。)
ところが、マイナス的な死に方だけではなく、西部さんの様なプラス的な死に方もあったんですね。
確かに、全てをやり遂げた末に死を選ぶのは罪に当たらない、との話も聞いた事があります。西部さんの場合、むしろ進化を数倍に加速させたと思えて来ます。また、それを実行できてしまう西部さんは、何と言う強さなのでしょう。
西部さんからは、精神の自立を貫く強靭な意志を感じます。と同時に、浮かび上がって来る、もう1つの物もあります。それが、西部さんのユーモアと優しさです。
今度は、故人と親交のあった人達の発言から、西部さんの人柄を偲ばせる箇所をピックアップしました。・・・・・・
知人らによると、東京・新宿で、酒を飲みながら知識人らと語り合うのが大好きだった。ケンカや後輩への説教もしばしばだったが、相手を後からなだめたり、後日、電話で酒場に誘ったり。優しさと人なつっこさもあった。たばこもこよなく愛し、「思考の道具」と言ってはばからなかった。
お互いの立場を認めながら、そして激励もし、叱咤もし、更には友情を持ちながらやって頂いた。と言うのが、西部先生の優しさ、更には生き方、と私は感じてます。
西部さんと飲んだり遊んだりする時は、得難いユーモアに包まれた桃源郷みたいな処に連れて行ってくれる。教養と言うのかな。知識を知性でくるんで、更に徳があったんですよ。徳とユーモアを見せて教えてくれた。大名物だった。
西田くん、そんなに深刻になるな。どのみち我々は死んでしまうんだ。ユーモアを持って精一杯、楽しく行こうじゃないか。と、仰ってました。しかも、励ましてくれるんです。
酒場では、いつも真剣でした。それは西部さんの思想の実践の場でもあります。笑いあり、涙あり、物語あり、ユーモアもある。対話を重ね、合意を探る。そこに何か見えてくる物がある。
私も西部さんをメチャメチャ批判してた訳ですよ。それをね、その後、対談を申し込んだ時に、受ける訳ですよね。そん時に、編集者に、それは佐高の意思か?と、訊いたらしいんです。そうだ、って言ったら、受けて来てくれて。だから、ある種で議論好きってのもあるけども、人間が好き。自分をメチャメチャ言った人間とも会ってみたいって言うね。それは、参ったな。
<毎日新聞>
佐高信が取材に対して、こうコメントしている。
「議論を打ち切る『問答無用』ではなく、『問答有用』。お酒を片手に朝まで語り明かし、カラオケでは美空ひばりの『港町十三番地』を一緒に歌ったことが思い出です。議論好きであり、寂しがりやでもありました」
かつて佐高信は西部邁を論敵とし、激しく批判する。たとえば「噂の真相」に連載していた「タレント文化人筆刀両断」では、「舛添要一は『陽性バカ』(単純バカともいう)、そして西部は墓場から戻って来たような『陰性バカ』である」などと腐す。それが議論を重ね、時を経て、こうして追悼のコメントを述べるに至るのだった。
「はい論破!」などと、子供じみたふるまいをするのが当世の政治論議の仕方のようだが、それと反対の西部邁の「問答有用」である。
確かに彼は「保守論客」ですが、彼が嫌いなのは、何よりも権威主義。偽善、嘘っぱち、虚飾、地肌が見えないものに対する怒りは物凄かった。西部さんは、実は「思想」は二の次で、「人間」こそ第一でした。
(浜崎洋介、雑誌「表現者」編集員)
僕も最初に感じたのは、先生のそういう人間性です。「四十歳下の人間とここまで真剣に話をする人がいるんだ」という驚きです。
「じゃあいくぞ」と、例のごとく新宿に繰り出して、二軒、三軒と回り、だんだん人も減っていくのに先生は絶対帰らない。「いつまで僕と付き合ってくれるんだろう」と思っていたら、この度の自裁の直前に寄られたお店で、結局、朝までお付き合い下さいました。
ただただ嬉しかったです。目を見ながら真剣に話してくれて、時々厳しくなるかと思うと、あのチャーミングなニコッと笑った目で見てくれる。「こんな人がいるんだ」と感激しました。
・・・・・・最後の浜崎洋介さんの例ですが、私も常々、尊敬の気持ちに相手の年齢は関係ないと思い実践して来ました。
個人的な思い出話を1つ。
中西貴くんと言う、事故で夭逝(ようせい)した若いロックンローラーがいました。
ある時、酒の場で、・・・
「こうこうこういう時、中西くんだったらどうする?。」「・・・」、「えっ。俺だったらとても、そんな事は出来ないけど、本当に?。」、「はい。何の迷いもありません。」
・・・完敗です。
ハタチそこそこの人間であろうとも、情熱と純粋性と覚悟では勝負できます。
その後、彼の事をずいぶんと贔屓にしたものです。いつでも若い人に感動していたい私の気持ちに対して、最期まで期待を裏切らない人物でした。
彼は運命のパートナーと出会い、生まれて初めての幸福を手にいれます。その矢先の死です。私はここに、神の祝福を見ます。
「中西くん。生まれて来て良かったね。どうぞ安らかに。」
(いつも寄り道が多くて、ごめんなさい。)
また、こんなエピソードも。・・・・・・
(寺脇研、雑誌「映画芸術」運営)
ともかく弱い者への思い、“侠気(おとこぎ)”ということでいえば、「映芸」は貧乏な雑誌ですから、対談をお願いしておきながらノーギャラで すが、応じてくださった。
しかも、「対談後の打ち上げ費用ぐらいは私が出します」と言っていたんですが、すぐに西部先生がお支払いになるようになったし、「映芸」が経済的にかなり困窮していたとき、ポーンとまとまった額を寄付していただいたこともあります。固辞したんですが、 「友だちが困っているときに助けるのは当たり前の話だ」と。
・・・・・・強きを挫き弱きを助ける、自分に厳しく他人に優しい、西部暹。
さて、私の大好きな言葉があります。レイモンド・チャンドラーの名作“フィリップ・マーロウ”シリーズ(ほとんど読んでます)の中の言葉です。
「強くなくては生きては行けない。優しくなくては生きる資格がない。」
まさに、これを地でやっていたのが西部暹ではないでしょうか。
(続く)
次回もどうぞ、よろしくお願いいたします。