自由研究

「西部暹の方法(高暹な人生)」Vol.-4

「西部暹の方法(高暹な人生)」Vol.-4

 

こんにちは。スピリチュアルランド、MIYA-JUNです。

前回の続きをお届けします。

 

 

スピリチュアル的な解釈

 

・・・・・・私がニュース第一報に接し、ネットで調べ、事の全貌を少しずつ確認して行く中で、心に真っ先に浮かんで来た物があります。その時は、あまりに不謹慎な事に思えましたが、同じ感じ方の人は沢山いるもので、ちょっと安心しました。

ご遺族の方々には、本当に申し訳ありません。西田昌司さんや黒鉄ヒロシの発言にもありますが、

解放や希望や勇気、新しい可能性。
これなんですよ!!!。

私は元々、どんな事があっても自殺は絶対にいけないと考えていました。それは、スピリチュアル的な理由からです。

魂の進化にとって自殺は、とてつもない逆行で、取り戻すのに数千年を要するとかの話はよく聞きます。神が与えてくれたチャレンジから逃げ出す事であり、責任の放棄であり、何より、神に背く事と思えます。

(今回は、スピリチュアルな観点から、思う所も沢山ありましたが、省きました。話のテーマの統一感を優先させた形です。それらはまた別の機会にする事とします。)

ところが、マイナス的な死に方だけではなく、西部さんの様なプラス的な死に方もあったんですね。

確かに、全てをやり遂げた末に死を選ぶのは罪に当たらない、との話も聞いた事があります。西部さんの場合、むしろ進化を数倍に加速させたと思えて来ます。また、それを実行できてしまう西部さんは、何と言う強さなのでしょう。

西部さんからは、精神の自立を貫く強靭な意志を感じます。と同時、浮かび上がって来る、もう1つの物もあります。それが、西部さんのユーモアと優しさです。

 

 

西部暹の優しさ

 

今度は、故人と親交のあった人達の発言から、西部さんの人柄を偲ばせる箇所をピックアップしました。・・・・・・

 

<毎日新聞>
知人らによると、東京・新宿で、酒を飲みながら知識人らと語り合うのが大好きだった。ケンカや後輩への説教もしばしばだったが、相手を後からなだめたり、後日、電話で酒場に誘ったり優しさと人なつっこさもあった。たばこもこよなく愛し、「思考の道具」と言ってはばからなかった。

 

(木村三浩、右翼団体「一水会」代表)
お互いの立場を認めながら、そして激励もし、叱咤もし、更には友情を持ちながらやって頂いた。と言うのが、西部先生の優しさ、更には生き方、と私は感じてます。

 

(黒鉄ヒロシ、漫画家)
西部さんと飲んだり遊んだりする時は、得難いユーモアに包まれた桃源郷みたいな処に連れて行ってくれる。教養と言うのかな。知識を知性でくるんで、更にがあったんですよ。徳とユーモアを見せて教えてくれた。大名物だった。

 

(西田昌司、自民党・参議院議員)
西田くん、そんなに深刻になるな。どのみち我々は死んでしまうんだ。ユーモアを持って精一杯、楽しく行こうじゃないか。と、仰ってました。しかも、励ましてくれるんです。

 

(柴山桂太、雑誌「表現者」編集員)
酒場では、いつも真剣でした。それは西部さんの思想の実践の場でもあります。笑いあり、あり、物語あり、ユーモアもある。対話を重ね、合意を探る。そこに何か見えてくる物がある。

 

(佐高信、リベラル思想家)
私も西部さんをメチャメチャ批判してた訳ですよ。それをね、その後、対談を申し込んだ時に、受ける訳ですよね。そん時に、編集者に、それは佐高の意思か?と、訊いたらしいんです。そうだ、って言ったら、受けて来てくれて。だから、ある種で議論好きってのもあるけども、人間が好き自分をメチャメチャ言った人間とも会ってみたいって言うね。それは、参ったな。

 

<毎日新聞>
佐高信が取材に対して、こうコメントしている。

「議論を打ち切る『問答無用』ではなく『問答有用』。お酒を片手に朝まで語り明かし、カラオケでは美空ひばりの『港町十三番地』を一緒に歌ったことが思い出です。議論好きであり、寂しがりやでもありました」

かつて佐高信は西部邁を論敵とし、激しく批判する。たとえば「噂の真相」に連載していた「タレント文化人筆刀両断」では、「舛添要一は『陽性バカ』(単純バカともいう)、そして西部は墓場から戻って来たような『陰性バカ』である」などと腐す。それが議論を重ね、時を経て、こうして追悼のコメントを述べるに至るのだった。

「はい論破!」などと、子供じみたふるまいをするのが当世の政治論議の仕方のようだが、それと反対の西部邁「問答有用」である。

 

(保阪正康、ノンフィクション作家)
確かに彼は「保守論客」ですが、彼が嫌いなのは、何よりも権威主義。偽善、嘘っぱち、虚飾、地肌が見えないものに対する怒りは物凄かった。西部さんは、実は「思想」は二の次で、「人間」こそ第一でした。

 

(浜崎洋介、雑誌「表現者」編集員)
僕も最初に感じたのは、先生のそういう人間性です。「四十歳下の人間とここまで真剣に話をする人がいるんだ」という驚きです。

「じゃあいくぞ」と、例のごとく新宿に繰り出して、二軒、三軒と回り、だんだん人も減っていくのに先生は絶対帰らない。「いつまで僕と付き合ってくれるんだろう」と思っていたら、この度の自裁の直前に寄られたお店で、結局、朝までお付き合い下さいました。

ただただ嬉しかったです。目を見ながら真剣に話してくれて、時々厳しくなるかと思うと、あのチャーミングなニコッと笑った目で見てくれる。「こんな人がいるんだ」と感激しました。

 

 

 


・・・・・・最後の浜崎洋介さんの例ですが、私も常々、尊敬の気持ちに相手の年齢は関係ないと思い実践して来ました。

個人的な思い出話を1つ。

中西貴くんと言う、事故で夭逝(ようせい)した若いロックンローラーがいました。

ある時、酒の場で、・・・

「こうこうこういう時、中西くんだったらどうする?。」「・・・」、「えっ。俺だったらとても、そんな事は出来ないけど、本当に?。」、「はい。何の迷いもありません。」

・・・完敗です。

 

ハタチそこそこの人間であろうとも、情熱と純粋性と覚悟では勝負できます。

その後、彼の事をずいぶんと贔屓にしたものです。いつでも若い人に感動していたい私の気持ちに対して、最期まで期待を裏切らない人物でした。

彼は運命のパートナーと出会い、生まれて初めての幸福を手にいれます。その矢先の死です。私はここに、神の祝福を見ます。

「中西くん。生まれて来て良かったね。どうぞ安らかに。」

(いつも寄り道が多くて、ごめんなさい。)

 

 


また、こんなエピソードも。・・・・・・

(寺脇研、雑誌「映画芸術」運営)
ともかく弱い者への思い、“侠気(おとこぎ)”ということでいえば、「映芸」は貧乏な雑誌ですから、対談をお願いしておきながらノーギャラで すが、応じてくださった。

しかも、「対談後の打ち上げ費用ぐらいは私が出します」と言っていたんですが、すぐに西部先生がお支払いになるようになったし、「映芸」が経済的にかなり困窮していたとき、ポーンとまとまった額を寄付していただいたこともあります。固辞したんですが、 「友だちが困っているときに助けるのは当たり前の話だ」と。

 

・・・・・・強きを挫き弱きを助ける、自分に厳しく他人に優しい、西部暹。

さて、私の大好きな言葉があります。レイモンド・チャンドラーの名作“フィリップ・マーロウ”シリーズ(ほとんど読んでます)の中の言葉です。

「強くなくては生きては行けない。優しくなくては生きる資格がない。」

まさに、これを地でやっていたのが西部暹ではないでしょうか。

(続く)

 


次回もどうぞ、よろしくお願いいたします。

 

 

 

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

下からも、よろしくお願いいたします。