こんにちは。スピリチュアルランド、MIYA-JUNです。
前回の続きをお届けします。
まとめに入ります。
近年、日本だけを除く先進諸国では、安楽死・尊厳死・終末期医療など“死の自己決定権”の議論が盛んです。
もっと日本でも、臭い物に蓋をするのではなく、真っ正面から家族全員での議論をするべきです。
また、西部さんは、最愛の妻の介護を献身的に勤めた事実に表れている様に、単純に他人の病院死を批判するものでもありません。
終末期医療について私の場合では、自分の母は果たして延命を望んでいたのかと、疑問と後悔の念があります。
病院で意識不明になる直前、こちらの呼び掛けに対し声は出せませんが、口の動きで一文字一文字と何かを伝えます。それが私には、こう聞こえました。
「ありがとう。もういいよ。死なせてくれ。」
やはり意識が明晰な段階での話し合いが必要です。
(ちなみに、世間では“孤独死問題”が騒がれていますが、私が家を出て、自活をスタートさせた時には、“孤独死”に憧れたものでした。勿論、それを望まない人には、“孤独死させない仕組み”が必要です。ですが、それと共に、“孤独死する自由”も認めて欲しいものです。)
“死について”は、本当に真剣に考えなければなりません。
それは、“生”を輝かせる事でもあります。死に方は生き方です。覚悟を持って死ぬ事は、覚悟を持って生きる事。
例えば、三島由紀夫や太宰治やヘミングウェーは、その印象的な死に方で、己れの人生と言う長大な作品を、永遠に色褪せない傑作と成しました。
「西部暹の方法」。この最期の仕上げは見事な上に、誰よりもエレガントです。
西部流保守思想の要諦(ようてい)・ポイントの1つ・・・
「世の中は深い必然性の元に、成るべくしてこう為っているのだから、政府などによる頭デッカチの急激な大改革はイカン。ゆっくりとじっくりと(漸進的に)行け。」
“西部暹(にしべすすむ)”の“暹(すすむ)”は、“高暹(こうまい)”の“暹(まい)”。邁進を積み重ねた、“高暹な人生”と言う偉大な作品は、ここに完成を迎えます。
・・・西部暹。その、あまりに先進的な死に方ですが、これを求めていた人達も多くいます。
その考え方は現段階で、知る人ぞ知ると言った所ですが、ゆっくりとじっくりと拡がり続ける事を望みます。
いずれ、日本人全員に多大な影響を及ぼすかも知れません。
心から、ご冥福をお祈り申し上げます。
(続く)
この文章は2018年3月頃に書きました。
その後、この出来事は、意外な展開となり、刑事事件へと発展しました。
自殺幇助をしたとして、2名の逮捕者を出し、有罪が確定しています。
(こう言った扱い方を、したくはないのですが、)“事件”としての経緯については、Wikipediaに詳しい所なので(こちら)まで。
残念な事に、西部さん自身も望んでいなかったであろう結末となりました。
少々ケチが付く形となってしまいましたが、全体的な私の評価は同じです。
善悪の解釈とは、法律上と道義上で、一致する物ではありません。
「警察は無粋だな。」
これが私の感想です。
さて皆さんは、どうお考えになるでしょうか?。
次回は、西部さんの著作から、その生死観が端的に表現された箇所を抜粋します。
どうぞ、参考まで。