自由研究

「西部暹の方法(高暹な人生)」Vol.-6

◆◆◆「西部暹の方法(高暹な人生)」Vol.-6◆◆◆

こんにちは。スピリチュアルランド、MIYA-JUNです。

今回は、西部邁さん本人の著作から抜粋します。

ここで私は退場しますが、どうぞ最後までお楽しみ下さい。

 

 

遺作「保守の真髄」

 

 

自然死と呼ばれているもののほとんどは、実は偽装なのであって、彼らの最後は病院に運ばれて治療や手術を受けつつ死んでいくということなのである。換言すると自然死と呼ばれているものの最終段階は「病院死」にほかならないということだ。

(中略)

述者は、結論を先にいうと病院死を選びたくない、と強く感じかつ考えている。おのれの生の最期を他人に命令されたり弄り回されたくないからだ。むろん、そうかといって、病院死を非難したいのでもない。

病院死にあっては周りの者が死にゆく者を看病し、死にゆく者が(モルヒネなどによって苦痛を抑えてもらいつつ)周りの者に挨拶をする、といったような臨死についての儀式が行われている。その儀式を大切と思う者たちが病院死を選ぶのは当たり前のことといってよい。

(中略)

有り体にいうと、たとえば自分の娘に自分の死にゆく際の身体的な苦しみを、いわんや精神的な苦しみなどは、つまりすでにその顛末を母親において十分にみているのに、それに輪をかけてみせる、というようなことは、できるだけしたくない、そんなことをするのは廉恥心に悖る、と考える方向での生き方をする者がいて、述者はそうした種類の人間なのである。

ナチュラル・デスは(自然死ではなく)「当然死」と訳されるべきものではないのか。ここで当然というのは諸般の事情を考えて納得がいくという意味である。その意味で当然死はシンプル・デス(簡便死)と呼ばれてもさしつかえない。

つまり、「安楽死」と言う呼び方は死というものにつきまとう本人および家族のおのずからなる苦しみを軽んじすぎているし、逆に「尊厳死」という大仰な呼び方も死がどんな人間の生にとって も当たり前の出来事だと言う点をわきまえていない。

述者が病院死ではなく自裁死を選ぶとしたら、それは、自裁死のほうが、自分の内なる臨死意識と外なる瀕死環境の両面からみて、自死もまた、社会へ迷惑をかけること必定と知りつつも、当然と思われるからにほかならない。

だから当然死は、ナチュラル・ライト(自然権)に属すというよりもむしろ、ナチュラル・デューティ(当然の義務)の一つだと著者は考えている。

なお人生で三度めの述者の短銃入手作戦が、前二回と同じく入手先主の突如の死によって頓挫するというほとんどありえぬ類の不運に見舞われたことについてここで詳しく話すわけにはいかない。

ついでに申し添えておくと、この述者は、道徳と法律が食い違うことの多い現代では合法にも不法にもそれぞれ合徳と不徳のものがあって、自然死用の不法な武器調達はおおむね合徳に当たると考え、そして自分は合徳で生きようと構えてきたのである。

そしてその「当然死」の第一項目には、「生の意義について公に語ってきた者は、その語りをおおよそ尽くし、それゆえ“自分が周囲や世間に何 も貢献できないのに迷惑をかけることのみ多くなると予測できる段階では生の意義が消失する”と判断しなければならない」という規定が据えられる。

いうまでもないことだが、当然死には憤怒や抗議、不安や絶望といった、心理的要素はまったくなく、それはただ、意義あるべきものとしての生にかならず終焉がやってくるという人間の宿命、それをすすんで引き受ける作業にすぎない。

生の周囲への貢献がそれへの迷惑を下回ること確実となるなら、死すべき時期がやってきたということなのだ。

(中略)

そのようにほぼ最終的に考えたのは、述者の場合は五十代の半ばのことであり、それ以後二十三年も時間が経っているが、その考えは少しも揺るがなかった。

(中略)

述者がいいたいのは、世界の長寿各国で「生き方としての死に方」が、とくに家族とのかかわりをめぐって、正面から検討されはじめているということだ。

(後略)

 

 

<あとがき>

我が娘、西部智子よ、きみに僕の最後のものとなる著述を助けてもらって、大いに楽しかったし嬉しくもあった。

(中略)

ともかく僕はそう遠くない時機にリタイアするつもりなので、そのあとは、できるだけ僕のことは忘れて、悠々と人生を楽しんでほしい。

(中略)

・・・・・・としたためて本著述は完了といくはずだったのに、その直後に、述者のある私的な振る舞いの予定日に衆院総選挙が行われると判明した。

(中略)

本書がどんな出来具合のものか、それを述者が自分の目でみる始末となったのはそういう次第からである。

平成二十九年十一月 西部暹

※(神経痛でペンが持てない為、この本の全文は、娘さんによる口頭筆記で書かれています。)

 

 

 

<主な抜粋元>

 

・西部暹・著「保守の真髄」(講談社現代新書)

・テレビ「サンデークロス(トーキョーMX)」内、特別企画座談会「特集・西部暹とは何者か?」(2018年2月4日放送)
※この番組を10回以上観ていますが、観る度に新たな発見があり、実に奥深い内容です。

・雑誌「文芸春秋」2018年3月号、対談「自裁死・西部暹は精神の自立を貫いた」

・雑誌「週刊金曜日」2018年2月23日号、座談会「追悼・西部暹とリベラル・マインド」

 

 

 

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