こんにちは。スピリチュアルランド、MIYA-JUNです。
前回の続きをお届けします。
さて、西部さんは、どんな考え方の元に自裁死へ至ったのでしょうか?。
年老いてモウロクした醜態を晒す前に自裁死する。それが長年の持論だったそうです。
その裏には何より第一に、家族に迷惑を掛けたくないとの想いがありました。その為には、まだ意志と意識が明晰な段階でないと意味がないと発言しています(※注)。
それに加え、やはり最愛の妻との死別が拍車をかけた様です。この辺りの詳しい事は巻末に、本人の著書「保守の真髄」からの抜粋文を載せますので、そちらを参考にして下さい。
(※注)「これ以上体力が落ちると、判断が鈍る」「死ぬには気力がいるんだ」(本人・談)
それではここから、ネット・TV・新聞・雑誌などから集めた、レポートや感想や追悼の言葉などを並べます。・・・・・・
(黒鉄ヒロシ、漫画家) 僕もとりあえず生きていてほしいから、100回以上止めたんですよ。で、止め切れなかった。ぜんぶ論破されて。こっちが誘われる始末でね。 それで私は、未練がありますからって言わなきゃしょうがない訳ですよ。
で、この彼が見せてくれた道ってのはね、自裁がイカンとか何とかって、そう言う問題じゃない。もっと高暹なんですね。
この物を残されたのはね、何かね、解放されたみたいな気分。普通の人の死ではない、何かとてつもない死を見せていただいた。こっちが死ぬのが怖くなくなった位の自裁なんですよ。だから、軽々しく“自裁はいけない”とか、そう言った問題じゃないですよ。
西部暹と言う思想家は、死の問題を真剣に考えてたけど、であるが故に、生きるって事に対して本当に真剣な人だったと思います。晩年、よく仰ってたのは、俺は、書くべき事を書き、考えるべき事を考え、喋る事を喋ったんだと。ようするに、自分の可能性の全てを試したと、実に朗らかに仰ってました。1つの人生の中に、たくさんの人生を凝縮した様な、非常に濃い人生を送られた方です。
<保阪正康(ノンフィクション作家)×浜崎洋介(雑誌「表現者」編集員)・対談>
(浜崎)とにかく精神の自立を守られようとされていました。「物書きとしてアドバイスすると、君の言うことが完全に孤立して世界を向こうに回すことになっても、その全員を殺すと思っておけ」と言われたこともあります。過激な言い方ですが、自立する精神を絶対に忘れるな、ということです。これは、先生の政治思想とも一致していて、先生は親米保守を痛烈に批判していました。日米関係が自立した国家同士の関係ならいい。ところが、実態はそうではない。「これを侮辱とか屈辱と思わない精神のあり方が俺は嫌なんだ」と。
(保阪)アメリカは基本的に嫌っていましたが、それ以上に、属国であることに何の痛痒も感じない日本人にほとんど絶望していたと思う。
(浜崎)アメリカに対する自立の問題は、現代の消費文明や医療体制に対する自立にも通じていますね。
(保阪)自裁死も、そういう自立の意志の現れでしょう。
(中略)
(保阪)西部さんの死は歴史に残ると思う。この国の現状に対する異議申し立てだからです。それは、たとえば一分一秒でも延命措置を施す今日の医療体制であり、その土台には、戦後の生命至上主義がある。そこでは単に生命が維持されているだけで、「人として生きている」と本当に言えるのか。精神の自立は保たれているのか。西部さんの死が、三島など近代日本の自殺の系譜に連なるというのは、そうした生命至上主義の空虚さを問うているからです。
(浜崎)三島も生命至上主義を批判して、あのような最期を選びましたが、その死のあり方は先生とは質的に違いますね。激しい自己主張はなく、静かな印象で、三島のような無理をしている感じもありません。
(保阪)だからこそ、逆に重みがある。彼は、自分の死によって、近代における死のあり方という根源的な問題を我々に静かに突きつけた。それを笑って済ますことも、無意識に知らないで過ごすこともできる。しかし、「死」をどう考えるかという問題は、いずれ我々一人一人にドーンと響いてくる。我々がその死の意味を考え続けるかぎり、西部暹は、我々の中に生き続けるでしょう。
(浜崎)この自裁死は、ニヒリズムの結果ではありません。むしろニヒリズムへの徹底的な抵抗です。生命至上主義的な単に生き延びるという虚無への抵抗。「自立」への意志を貫くことで、逆に「自裁死という生」を先生は選び取ったんだと思います。
<毎日新聞> 西部さんの死を巡っては、長年の持論に加え、2014年3月に最愛の妻・満智子さんを亡くした衝撃が影響した可能性も否めない。『表現者』 15年1月号にはこうある。
〈長年の連れ合いに先立たれて、自分の人生は実質的に終わったのだと強く感じているのだ。自分の読者も視聴者も、本気で読んだり観たりしてくれるのは、妻一人くらいかもしれないと勘定し、それで十分だと居直って生きてきた不埒(ふらち)な人間は、そうなってむしろ当然なのである〉
先述した記者のインタビューの時も、満智子さんの死を「自分の半分以上をもっていかれた感覚」と振り返っていた。いかなる時も自分を支えてくれた「同郷」で「同学年」の妻との「何気ない会話」こそが、言論活動の土台だったという。
また、自らも妻を8年間介護した悲痛な体験のゆえか、「連れ合いならまだしも子供や他人に看病を強いるのは自分には耐えられない気苦労」とさまざまな場所で述べていた。
(続く)
次回もどうぞ、よろしくお願いいたします。